|
・助詞とは、一般に、活用がなく、他の語の下について関係を表わしたり、 |
ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲 佐々木信綱 助詞の格助詞である「の」の説明には、必ずといっていいほど参考にされる歌です。学生の 頃に授業で習ったかなと記憶のすみに残っている方も多いのでは? 「の」を一首の中に重ねてゆく効果は、リズムを作って一気に読み切って欲しいときに発揮 されてゆきます。 この一首に使われている格助詞は、全部が連体格です。 つまり、次の体言、次の体言と掛かってゆきますから、「ゆく秋」(季節)・「大和」(場所)・「薬 師寺の塔」(建物の一部)・「ひとひらの雲」(焦点になるもの)というようにして、大から徐々に 焦点化して、思いを寄せていける工夫をしています。 たたみかける効果です。同じ助詞を用いて成功していますね。 このお歌を微かに下地として挑戦した歌は、 ♪むらぎもの心の幕をひく朝のやらずの雨の深き寂寥 裕香 でしたが、助詞全部を「の」にはできずでした。 しかも、リズムは若干出たものの、焦点化に失敗したようです。 【原人の海図】の「枕詞」歌会の折の出詠で、賛否両論あり、勉強になりました。 さて、みなさんも挑戦してみては? |
若き葉のしげ木がもとのしめり土心に沁みてわれは歩むも 島木 赤彦 古典語の終助詞「も」です。強意・感動を表します。 上代には、「夜はふけゆくも」や「見れば悲しも」など、盛んに使われたものです。 中古の和歌には、一時衰えを見せたと言われていますが、近世・近代には、また、万葉調 を愛する歌人たちの手で、復活してきました。 終止形接続が一般的ですが、まれに連体形にも付きます。 そして、助詞の「か・ぞ・は・や・が」に付く詠み方も見られます。 どちらにしても、作者の心の状態を表現するのが主です。 しみじみとして感動を伝えます。 そして、現代語にも、そのまま用いられ、「とも」から派生したと言われているようです。 ただし、その場合は、感動というより、強意となり、「そうとも」「いいとも」「うかがいますとも」 などが目立ちますね。 |
やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君 与謝野 晶子 さびしからずやの「や」が効いていますね。 ここでは、「さびしくはないのでしょうか」という呼びかけになります。係助詞ですね。 とすると、その「や」に呼応して連体形で結ぶのが多いようですけれど、この歌のように 体言で終わることもあります。 文脈によっては、「疑問・反語」に留まらず、「詠嘆」を含むこともあります。 古くは、指示の気持ちを表わすように用いられたものが、いつしか、疑問の意味を帯び るようになりました。 ・・・ということは、「か」と勢力争いが出てきますね。 そうです。現代では、「か」が勢いをつけてきましたから、「や」は疑問としては用いられ なくなりました。 そうそう係助詞の「や」と間投助詞の「や」は、同源と言われていますよ。 それにしても、このお歌、初句から結句までの一語一語がグッと結びついて、一気に 語りかける感じがありますね。 相手に訴えかける(問いかける)気持ちが、調べの良さと相まって魅力的に響きます。 ちょっと、真似をして、(仕切れないけれど、) ♪擦れ違う日々のあまりに多くして両手のひらを君がみ胸に なんて詠んでみましたけれど??? |
春日野に若菜摘みつつ万代をいはふ心は神ぞ知るらむ 古今集 み吉野の山かきくもり雪ふればふもとの里はうちしぐれつつ 新古今集 わが心なぐさめかねつさらしなやをばすて山に照る月を見て 古今集 三首を同時に比較しながら考えて見ました。(学燈社発行の国文学などを参考に。) まず、一首目の<若菜摘みつつ>の「つつ」という接続助詞について考えます。 この場合は、歌の半ばにありますから、「つつ」の前後の動作や作用が並行して同時に 進むことを示します。「若菜を摘みながら」というのが、近い言い方です。 それに比べて、二首目の結句にきた「つつ」は、動作や作用が繰り返されて、そのまま 継続していることを示します。 「時雨が降り続いていることよ」くらいの感じです。 そして、本居宣長の書を読むと、「結句(文末)の『つつ』は、『て』に通じる。」とも言われ ています。同じ接続助詞でも、「つつ」は、現在の動作にだけ使用するため狭く、「て」は 過去にも現在にも使用する上に、余韻を残す意味もあり広いという意味のことも記され ています。 そして、三首目の結句の「見て」の「て」を考えてみると、このままであれば、「月を見た ときになぐさめかねた」ともとれますが、「しばらくのちになぐさめかねた」意味にも広がり ます。 これをもし「見つつ」にすれば、「見ていながら」の意だけで、同時進行に進んでいきます。 どうやらそれぞれに時間の経過やその広がり方が変わってくるみたいです。 どうすれば、効果的なのか考えてみるのも、おもしろいかも・・・・。 |
夏ゆけばいっさい棄てよ忘れよといきなり花になる曼珠沙華 今野 寿美 角ふたつ曲がればすでに迷ひゐるわれをここまで連れ来し人よ 今野 寿美 大好きな歌人の歌を取り上げてみました。 「よ」という助詞の用法です。 「棄てよ忘れよ」の「よ」は、用言の命令形に接続して、命令や許容や禁止の意を表わしま す。 「人よ」の「よ」は、体言や活用語の終止形・連体形について、詠嘆・よびかけなどの意を表 わします。 どちらも終助詞という種類です。 「連れ来し人よ」は、指定の意味も持ち、なおに、切実な詠嘆も添えていっている気がしま す。 そして、「棄てよ忘れよ」も単なる命令ではなく、切実に説き伏せるものを感じると思うのは、 考えすぎなのでしょうか?「いきなり花になる」と詠まれた気持ちに思いが至ります。 少し、付け加えると、「よ」には、間投助詞もあり、有名な万葉集の「籠もよみ籠持ちふくしも よみぶくし持ち・・・・・」の一連がそうです。言葉の切れ目に付けて、強く印象つけるときに用 います。 また、格助詞として、「・・・から」の意味に用いられた時代もありましたが、(ちょっと例が浮か びません。)今は、「より」などもありますから、あまり使われなくなりました。 |
迷ひつつ生きし荒れ野のいづこにも一縷の水はありし思ひす 大西 民子 ふたたび、接続助詞「つつ」を取り上げます。 重複することもありますが、さらに理解を深める材料として・・・・・。 「つつ」は、「つ」という完了の助動詞を続けたものから生まれています。 ある事実の上に他の事実も並存して継続されているときに使います。 前述のように、同じ接続助詞の「て」も使うことができます。 「迷ひて」のようになります。ここでは、字足らずになりますから、別の場合です。 ただ、「て」は、一個人やひとつのものの動作を指すことが主です。 「つつ」は、複数のものや人の動作に使うことが主です。 ここでは、「あれこれ」迷いながらということでしょうか。 ただ迷うではなく、「つつ」が裡を匂わせてくれますね。 いろいろ知って、より有効な使い方をしてみたいですね。 |
熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今はこぎいでな 万葉集 春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと外の面に草に日の入る夕べ 北原 白秋 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 古今集 古典語終助詞の「な」を取り上げてみました。 「な」には、願望・禁止・感動の三種類があります。 「今はこぎいでな」の「な」が願望です。 活用語の未然形に接続します。 「さあ今、漕ぎ出そう」くらいの意味になりますね。ただ、これは、上代に確立されていたもので、 平安時代以降は、意味の近くて似ている助動詞の「む」に取って代わりました。 「こぎいでむ」という表現に近似しているということですね。 「な鳴きそ」の「な」が禁止です。 上代・中古には、終止形接続でした。万葉集では、「いたづらに我を散らすな酒に浮かべこそ」 のような使われ方をしていました。 ところが、のちには、未然形や連用形接続も出てきました。 白秋の歌も、連用形接続になっています。 ただし、どちらにしても、禁止の「な」は、独立しておらず、「・・・そ」や「・・・こそ」を伴った形で 使われます。 そして、「うつりにけりな」の「な」が感動です。 接続は、極めて多種にわたり、さまざまな助詞に付くこともあります。 現代でも、文中・文末にさまざまな形で使われているのは、この変遷かもしれませんね。 「はてな。さてな。」なんて、一般的ですね。 |
田子の浦ゆ打ち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける 万葉集三・三一八 広き田ゆ顔上げて見る一人だにあらねば消ゆるに消えられぬ虹 宮原 望子 格助詞「ゆ」です。奈良時代に用いられた助詞で、「よ」「より」と同義です。 「田子の浦ゆ」は、動作の行われる地点や経由する過程をあらわします。 口語で言えば、「〜を」に当たるものです。 「広き田ゆ」は、動作の起点を表します。 口語で言えば、「〜から」です。 この歌は、私の大好きな歌です。 「広い田から、顔を上げて見る人が一人もないので、せっかく出た美しい虹が、消えるに 消えられない。」という大意です。 虹は、不思議なほどに、みんなの話題になります。 何をしていても、「虹が出た」「あっ、虹だ」と誰かが、気づくとその瞬間に話題の中心に あがるものです。 このときは、たまたま誰も気づかなかったというより、見渡す限りの広い田ばかりで、人の 姿がなかったのでしょうね。激しい雨の後だったのでしょうか? 「消えるに消えられない虹」・・・・の詠み方が好きでした。 |
| 小筑波の茂き木の間よ立つ鳥の目ゆか汝(な)を見むさ寝ざらなくに 万葉集14・3396 上と同じ格助詞の「ゆ」です。 「目ゆ」と使われ、動作の方法や手段を表わします。 口語で言えば、「〜で(見る。歩く。)」という「で」の部分にあたります。 付け加えて、枕詞にもなっている「射ゆししの」の「ゆ」は、同じく奈良時代に用いられたもの ですが、これらとは異なり、助動詞で活用があり、受身の意を表わすものとして区別します。 |